その後の展開@2005/04/23

当エントリのコメント欄からの続き…
http://d.hatena.ne.jp/rAdio/20050420#c
コメント欄に書こうかと思ったのですが、長くなったのでこちらに吸い上げます。

ていうか、こういうとき、はてなをはじめ、いわゆる「Blogツール」というのは不便です。こういうコメントのやり取りについての機能は、スレッドフロートタイプの掲示板っぽい方がありがたいですね。

何より、コメントと本文でキーワードリンクの扱いが違うとか、そういう点も良くないかなぁ、と。コメントもエントリ本文も同列の扱いで、コメントがつけば「age」になるような感じの方がいいなぁ。

自分で作るツールにはそういう機能を実装することにしよう。メモメモ。そして本題へ…。


すごい…こんなにたくさんコメントが頂けるなんて。俺は独りじゃなかったんだ。まずは嬉しさでいっぱいです。

そんな俺は「益田ラヂヲ」、正式名称はこれでいいですよ。徳川セックル禁止令にはじまり、徳川セックル和親条約、徳川セックル通商修好条約を経て、現在、明治セックル維新なぞを名乗ってはいますが、本体は益田ラヂヲです。わが心の故郷「大阪府立生野高校ラヂヲ部」に由来する由緒正しき血筋の俺ですとも。

というか、セックル関係はまあ、もともとは後輩への嫌がらせのつもりだったんですが、いたく気に入ったので、非モテ活動をするときには特にこちらを名乗らせてもらってます。恥ずかしい名前なので、ちょっとアレですが…。

と、名前についてはこれくらいにしておいて…。

まず、我々非モテ人には、たいてい、非モテであるがゆえのルサンチマンがあります。もちろん、これを克服した人もいれば、今まさにその力に囚われ、怒りのマグマが渦巻いている人もいます。また、そもそもあまりそういう恨み辛みには無縁の非モテ人もいるかもしれません。

基本的には人それぞれになってしまうわけですが、「人それぞれ」という言葉は危険なもので、これを用いることで全ての意見にカタをつけることができてしまうマジックフレーズです。だもんで、この際「人それぞれ」は封印です。ロンドンにでも空輸してやって下さいな。

というわけで、まずは泪橋さんの

「相互理解」を至上命題になさるのではなくイマジン(電波男的表現?)による「相互尊重」を「取り敢えずの」目標になさった方が(「相互理解」はあくまで努力目標)良いのではないかと思う次第です。やはり、「理解」にはある程度の体験が必要ですので。

について。

確かにそうですね。理解に至るまでには、明らかに道が険しい。でも、尊重なら、思いやることなら、できそうです。ただやっぱり、結局は非モテ人側の姿勢もさることながら、それ以外の人たち、今まで非モテ人を軽蔑してきた人たちにも、同じような態度を求めるというのは、難しそうですね…。

我々側の態度については、自分たちの心がけ次第だとは思うのですが、それ以外の人たちにとって、今まで非モテ人というのは軽蔑の対象、あるいはそもそも不可視の存在だったわけで、そんな境遇に晒されてきたからこその、ルサンチマンなんだと思うんです。

だから今は、ある程度の闘争もやむなしかと思っています。俺自身は、臆病者で小心者、その上無責任主義者ですので、闘争なんてとてもおぼつきませんが、己のルサンチマンに導かれ、戦いを求めるのであれば、一度くらい戦ってみてもいいんじゃないかと思います。どうせ実際の戦争でもありませんし、それで死人が出るわけでもないですから、「自己主張としての闘争」もアリかと思います。

ただし、そのような行為は、本来非モテ属性にある行為ではなく、むしろモテ趣向にあることですから、それだけの波乱が待っているのは必至です。非モテ人は、闘争をはじめる前に、その点に充分留意するべきだと考えます。

そして、今まで非モテ人に対し、辛辣な態度を取ってきた方々には、この言葉を贈りたい。

ルサンチマンを笑うな!」

そしてこの言葉を発せられたid:umetenさんのエントリ、

こころ世代のテンノーゲーム 「効率化社会」における幸福と不幸〜捨聖の時代〜
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20050421

より、id:snusmumrikさんの興味深い考察。

階層化が行き着く先は、差別が横行し犯罪が多発する「世知辛い」世の中だ。「自己責任論」などに見られる「自分たち以外の者がどんな状況にあるか考えられない貧困な想像力」「自分たちが逆の立場になることを全く想定できない閉塞した知性」は、階層化をより助長する。どんな立場にあっても、基本的にお互いが開かれ、「聞く耳を持てる」ようでなくてはならないと思う。

自己責任論がいけないわけではないと思うのですが、それは、他者への思いやり、相互尊重を前提にしたうえでの話だと思います。論が正しいかどうかと、それによりどんな感情を抱くかとは分けて考えないといけないでしょうね。

俺の好きなボードゲームでいえば、例えばカタンの交渉で、いくら正論をもってメリット/デメリットを論理立てて説明して説得したとしても、悪辣な搾取とも言えるような取引をしてしまうと、その後の関係に齟齬をきたす、という現象に似ています。

結局、ゲームを動かしているのは人間で、そして人間は「論理マシーン」ではありませんから、感情もあるわけで、その感情を害すれば、「正しい取引」は望めないということなんですよね…。

それでも、我々は、人類に与えられた最大の贈り物でもあり枷でもある「知性」を最大限活用し、「聞く耳を持」って相互理解を目指してこの世知辛い荒野をゆくのです。
ただ荒野で生き残ればいいというわけではありません。そんな世知辛いところに生きてさえいても、それでもなお、思いやりを用いたうえで生き残るということが必要なのです。

やたらと自己責任論だけを振りかざす人は、「荒野でのサバイバル」のみに重点をおきすぎではないかと思います。たとえ、思いやりを持てば死ぬような状況でも、せめて、その気持ちを無視することだけは避けなければなりません。