『電波男』触発シリーズ「今、非モテとして ―最悪の自分語り その2―」

イケメンと戦うのが非モテの務めじゃない。
おなご様と戦うのが非モテの務めじゃない。

結局、自分の意識ひとつなんですよね…モテ/非モテっていうのは。

自分は非モテだと思っていても、見る人から見れば「どこが非モテだ!むしろモテだろうが!」と断じられるし、非モテ側にいると自覚している人間からすると、自分以外のほとんどみんながモテに見える。社会が全てモテ文化に衝き動かされているように見える。

非モテだということで、不利益を受けなければ、そして、非モテだということに、歪んだ特権意識さえ抱かなければ、それはそれで幸せになれるのに…少なくとも、穏やかに生きていくことはできるのに。

同じ人間なのに、何でこんなに違うように見えるんでしょうね。イケメンがモテようが、負け犬女性がわがままを言おうが、自分が幸せに生きていければ、あまり大した感想は抱かないだろうに、何故か自分の権利を奪われたように感じてしまうんですよね。

あいつらがいなければ、俺だって幸せになれたかもしれないのに!

なんてことを思ってしまう。でも、他人の足を引っ張って、「赤信号も皆で渡れば…」方式のやり方じゃあ、単に幸福の総量を減らして、相対的に幸せへと近付こうとしているだけのような気がします。

非モテをバカにせず、モテを羨まず、そして、モテだ非モテだとレッテル張りの応酬をせず、穏やかに、実状としての非モテライフを過ごすだけでは、どうにもならないものなんでしょうか。

非モテなのは仕方ないです。実際、そう自分が感じているんですから。でも、だからってやっぱり、他人や社会を攻撃することはできないです。そういう「強い」行為というのは、小心者の俺にとって怖いですから。良心や道徳心よりも、自分の自覚についての問題を、自分以外の原因に求めようとする、「強者の論理」が怖いです。

他者を攻撃して、それでまた自分が攻撃されて、そんなことを繰り返していたら泥沼です。そりゃまあ、理想は「自分に厳しく、他者には優しく」ですけど、そんなことができていれば、俺はとっくにモテ人です。だからせめて、「自分にも、他者にも優しく」、全てを馴れ合いに、争わず、自分の幸福を求めたいです。

モテだ非モテだといっても、それで社会が大きく変わることではありませんから、結局は自分が幸せに、愛ある人生を暮らしていけるかどうかが、一番の問題になります。

自分が非モテなのは、自分の問題だから、それを他人を攻撃する材料にしてしまうと、やってることは非モテ人が嫌悪するモテ人(他人の気持ちがわからない人たち。いわゆるDQNさんたち)と同じになってしまいます。

脳内恋愛とかは、自分が幸せになるためにやることであって、これこそが最良の方法だ! それ以外はクソだ! と、正しさを主張するための手段ではないはずです。

非モテを悔しく思うことはあっても、モテを攻撃していては、ますます幸せから遠ざかるだけなのではないでしょうか。

現実としての「非モテ」は存在しますし、実際それで不幸な気持ちを味わっている人は多いと思います。でも、そこで一番の問題は「自分が幸せを実感できないこと」なんですから、それを解決しようとせずに、悪者探しとか、正当化をしようとしても、幸せには繋がらないんじゃないかなぁ、と。

非モテ」という問題は存在するが、「モテ」という問題は存在しない、ということなのかもしれません。難しい問題です。