比喩のネタにするのはいいけれど…

コミュニケーションをカードゲームに喩えるネタをちょくちょく見かけますが、元ネタである「ボードゲーム文化圏」へのリスペクトがなさすぎるものがあまりに多くて悲しくなります。カードゲームって、何もいわゆる「トランプ」やCCGばかりじゃないのに…。
というか、そもそもそういう文化圏があることすら考慮されてなかったりして、「無視」&「いじり」の対象にされた「いじめられっこ」の気持ちになります。

ただ、もともとボードゲームは文化的搾取略奪陵辱をされやすく、システムをまるごとパクってキャラクターを乗せていっちょあがり*1、みたいなことはザラなので、もうそういう「ノーリスペクト」な状態には慣れてしまったというか、逆にそれだけジャンルとして意識されてないくらいに一般的に浸透しているという「強み」があるんだろうと、ある意味ポジティブに捉えることもできるかもしれません。

ともあれ、「ネタ」というものはどうしても「面白さ」が基準になるから、元ネタを「消費」するだけになってしまいがちという問題点を持っているのでしょうけれど。

だけど、そこから一歩だけでも理解を進めて、ネタとして使われる方の文化圏にも、昔から住んでる「住民」がいるんだってことも考慮に入れていただいたうえで、ちょっとは調べてから、できれば奥の深いものを創出して欲しいなぁ、と。

古参感情とか古参チマンとか

http://anond.hatelabo.jp/20070426153832
なるほど、そういう感情に近いですね。だけどボードゲームの場合、そういうケースがあまりに多いうえ、あるゲームがそのままメジャーになるのではなくて、アイデアだけ換骨奪胎して持っていかれたりするから、もはや「学習性無気力感」に近いものがありますね。

*1:日本でしかあまり見かけられない現象だとは思いますが要するに「情報の非対称性」がそうさせるのでしょう…。