暴力について

確かに俺は、「しないこと」…暴力を振るわないことは素晴らしいと主張していますが、自分がそういう「素晴らしい」人間だとは考えておりません。

それこそ、「何もしない」を追求してゆけば、非モテ活動なんてものは、何も存在し得ないことになるわけですから、活動者たる俺は、むしろ、「する」側にあたると考えています。

つまり、俺は「非モティズムにおいて許されざる行為をする者」なのです。
俺は、俺のことか、せいぜい非モテ同志のことくらいしか考えられません*1
自己愛のかたまりです。そして妬み嫉み憎しみを糧に生きるミゾジニストです。

俺は、非モティズムの敵を、手段を問うことなく排除します。
ですから、同志よ、どうか俺を弊して下さい。そしてもっと強大な敵を弊して下さい。

暴力の連鎖の果てにこそ、荒涼とした平穏が広がっているのです。
そこでなら、少なくとも、今よりは、自分たちと同じように苦しむ人間が増えているはずです。

そうして、万人が等しく苦しむ社会を目指すのです。
幸せの総量は決まっています。しかしながら、不幸せの総量は無限大なのです。

俺は、自分がモテないのは一向に構いません。
ならば、自分と同等以下の人間は、例外なく非モテであるべきなのです。

「運」などという不確定要素を認めるべきではありません。

「法則」こそが全てなのです。モテないのには理由がある…ならば、その理由を持つ人間を等しく非モテ道へと引きずり堕とさなければなりません。
非モテ活動とは、マイナスをプラスにする活動ではありません。プラスをマイナスに引きずり堕とす活動なのです。

ミソジニーミサンドリー大いに結構。「どうせ」主義だって大賛成。
自分は、どうせ、ロクでもない人間なのです。

同志よ、それを証明なさい。
予言を自己成就させるのです。

言葉であろうと、腕力であろうと、暴力をふるう人間、そして、「悪事を為す」人間は等しく滅べば良いのです。
俺は、少なくとも自分と同等以下の人間を道連れにして滅びたい。
あるいは、自分以上の事を成してくれる同志の手に掛かって滅びたい。

少なくとも、死ぬときだけは、独りじゃないぞ!

そう思いたい。

*1:それもあやしいところですが…