救済の日

非モテ人が、非モテのまま救われる、なんてことはあり得るのだろうか…?

愛なき姿態が「非モテ」なら、そして真実の愛を求めるのが「非モテ」の性であるならば、愛を得て「非モテ」から脱却してこその救済ではなかろうか。

何だかどこかで間違えて、トートロジーに陥ってしまってるような気もしますが…。