弱者として生きる

強者と言われる人たち、モテ人たちはあまりにも非モテに冷たい。どうして、「がんばっても、どうしようもないことだって、ある」ということを分かってくれないんでしょうか*1

そこに決定的な断絶を感じて、俺の絶望はより深くなります。確かに、モテることは羨ましいですよ。やっかみもありますよ。

でもね、「あはは、モテないオタクがまた吼えてるよ」と冷笑的な態度をとられるのが一番ツラい。「お前は間違っている!」と反論してくれる方がよっぽどマシです。それが感情に基づく罵倒だろうが、非モテを不可視のものとして扱っていないだけでもありがたいですよ。

非モテだけど、俺たちはここにいる!

電波男』で言われていることは、つまるところそういうことなんじゃないかと、俺は思います。だから、嫌ってくれてもいいけれど、無視はしないで欲しい。せめて、非モテの実状を分かったうえで、嫌って欲しい。

電波男』は、過激な表現や内容になっている部分が多くみられるけれど、それはつまり、

電波男』(本田透)では女はすべからく負け犬女,アナログ女であるような書き方をされていて,そこが不快だったという感想が女性ブログで散見されるけど,この本は恋愛というものに二次元でしか触れることのできない男のものだということを忘れずに読んで欲しいと思うわけで.「女からキモイと罵られ続けられてきたオレらに,『もっと普通の女の子もいますよ』なんて言うなゴルァ! そのオマエがいう普通の女の子にでさえ,オレは嫌われてるんだよ!」と気持ちを代弁したくなるわけで.

ということなんですよ、と。

いやホント、この人は多分俺の生き別れの兄弟ですよきっと。すごいよ。シンクロ率120%だよ。

そして同時に、

恋愛能力はどうしても優劣の付くものであり,こうして我らモテない男が団結できるのは仮想敵としての「モテ男」の前だけだというのも気づいてはいる.風呂嫌いで異臭を放つ不潔男よりは自分はマシだと思っているけど,靴紐がいつもほどけてたりひげの剃り残しがあったりと身なりのだらしなさに関しては完全にガードが甘いのも事実.

ということでもあり、「弱者連合」というものの脆さが、我々をさらに深みへと引きずり込むわけです。

弱者が「"弱者である"という理由」だけで連帯しようとしても、結局目指すものが「弱者からの脱却」になってしまい、結果として連帯が崩れてしまうという矛盾(?)。

多分、そういう現象は、過去に散々研究などがされてるんでしょうけど*2、でも、そうなっちゃうのが人間の業、というか性というか、哀しみ。

でも、それじゃあせめて「弱者を脱却した人」くらいは、かつて所属していた「弱者コミュニティ」に何か還元しても良いんじゃないでしょうか。

しかしながら、哀しいかな、「後ろ足で砂をかける」ことが多いのが世の中の仕組み。というか、それくらいでないと、弱者を脱却することなんてかなわないのかもしれません。

モテの魔の手が…」なんていわれてますけど、「モテの魔の手」に負けないということは、何も「どこまでも非モテを貫く」ということではなくて、「たとえ自分が非モテを脱却したとしても、あとに残された非モテ人たちに、自分の経験をいかして、何か還元しようと務める」ということだと思います。

そうすれば、弱者連合の脆さも回避できるのではないかと考えるのですが、理想論に過ぎないのでしょうか…。

*1:分かった上で、それでも「努力の足りない」非モテに対しては辛辣にならざるを得ないよ、という方は以下の記事をご参照下さい。
http://www.hiroro.net/8eggs/?id=1108051006
いかにそれが「強者論理の押し付け」にすぎないかが分かるでしょう。

*2:もし、詳しい人がおられたら、参考文献などお教えいただけると嬉しいです。