「□□しない○○より、□□する××」

まずは各種エントリを収集してみた。とりあえずのところは、はてな限定の様相。

  1. 知的好奇心解放 - マ儿コの日記 - 優しさと強さについて。「殴らぬオタより殴るDQN」ってどういう意味なの?
  2. 断片部 - 金平牛蒡 - 物理的に殴るDQN、精神的に殴る味噌
  3. 知的好奇心解放 - マ儿コの日記 - オタは女性を殴りうる「密室での力関係が暴力を産む」
  4. 世界のはて - 「殴らぬオタより殴るDQN」女性版
  5. 月がでたでた月がでた - [貞淑な喪女より][不実な美女]
  6. CROOK - ヤラせぬ喪女よりヤラせるビッチ
  7. 呉市振興委員会 - 似非フェミ論書く理系崩れより携帯厨の文系女(専業主婦志望)
  8. REVの日記 @はてな - ちょっと注釈
  9. 断片部 - うナどん[nit] - 殴るオタ

まず、『殴らないオタより、殴るDQN』という言葉がありますが、これの一番のキモは、「殴る/殴らない」ということであって、「DQN/オタク」の対比ではないと俺は考えます。

加えて、「□□しない」という「否定形」が基本になっていることも重要かと。つまり、「良い事をするから評価して欲しい」ということではなくて、「悪い事をしないから評価してほしい」、いやもっと突き詰めて言えば、「悪い事をきちんと処罰してほしい」ということなんです。

Masaoさんおっしゃってますが、この場合の「オタ」や「DQN」は飽くまでも象徴であって、具体例ではないのですから、そこを突き詰めて考えても仕方ないでしょう。あえて言うなら、"「イイコ」と「ボンクラ」の対比" ということにでもなりましょうか。

さて、ここからは完全に俺の歪んだ私見になります*1
非モテ」というのは、字義通り、非・モテであり、モテに対するカウンターなのです。だからこそ、何からのアクションを「する」のではなく、「しない」ことこそがアイデンティティになるのです。

その昔、「非モテとは物語の不在なり」と、俺は言いました。

だからこそ、「ない」ことを権益化したいのです。例えば、いわゆる「保守的な貞操観」を絶対化すれば、童貞、処女であることは、それだけで価値のあることになります。特に、非モテであれば、それを「守る」努力もほとんど不要なわけです。言うならば、この現代社会において、イケメンや美人が生まれながらのルックスで、ほとんど何もせずとも好評価を得られるように、非モティズムの支配下においては、非モテが、非モテであるがゆえに正の補正がかかり、逆に、モテどもは、そのモテ性がゆえに負の補正に苦しめられる、そんな社会を求めたいのです。

非モテとしての俺が求めるものはそれとして、「殴る/殴らない」に話を戻しますが、一般的に「パートナーを殴ること」は悪であるはずです。そこには様々な事情があろうかとは思いますが、「殴る行為」だけを取り出せば、そう言い切っても差し支えないと考えます。

だのに、その悪を為す人の方が高い評価を受けることがあるのは、大変な不条理ではないでしょうか。
確かに、「一般的には悪」なのですから、例外もあったり、個別のケースにまで落とし込むと、必ずしも悪でなかったりするのでしょう。
しかし、その「不規則性」こそが、非モテを苦しめるのです。だからこそ、ここで糾弾すべきは「悪」という評価の部分ではなく、「一般的には」という運用規則の部分なのです。

これが、「いかなる状況下においても、殴る行為は絶対悪であり、個別の事情は斟酌されず、例外は認められない」となればどうでしょう。
素晴らしい。「殴 *れ* ない」非モテにとっては、何もせずとも「正当性」という政治的利権が担保されます*2。これを使って、モテどもをガンガン糾弾し、排除してゆけば、非モテ非モテによる非モテのための社会の実現も、夢ではないかも知れません。

何より、その絶対的規範が厳密かつ確実に適用されている社会でなら、やるべきことが分かりやすくてラクです。
まず、殴りさえしなければ、絶対に悪い評価はされないわけですし*3、対して、規範自体に「反抗」したければ、暴力を振るえばいいわけです。
そこには、「殴らないこと」が良い評価に繋がらなかったり、逆に「殴ること」をしても悪い評価をされなかったりするという「不規則性」はありません。「殴る=悪、殴らない=悪でない」という「規則/法則」に基づき、「殴る」という行動さえしなければ、自動的に免罪されるわけです。

俺が、『殴らないオタより、殴るDQN』という言葉に込めたいのは、「殴るということが絶対悪ではない」という不規則性への呪詛であり、不明瞭な基準の恣意的な適用への怨嗟なのです。

そして、「行動しない/できない」非モテが有利になるには、「しないこと」をこそ評価し、「動けば動くほど評価を下げていく」がんじがらめの社会を求めて活動してゆくべきなのです。

それは何も、非モテが正当性を得る必要はありません。逆でも良いのです。活動的非モテこそが絶対悪になれば、人々は思い知るでしょう。
「行動しない」ことの素晴らしさを。

「やったこと」よりも「やらなかったこと」を評価する…それこそが非モティズムなのです。

*1:この "エチケットペーパー" がどのくらいの効果を発揮するのかは不明ですが…

*2:利権であることこそがポイント。正当性そのものだけでは、どうしようもない。

*3:これが一番重要